証  し

山田 眞
(1998年12月6日帰国直前の信仰告白)

   信仰告白をさせて頂くに当り、ここまでの聖霊の導きに感謝します。これからの生活を前に、自分がどの様にしてここまで来たかを明確にする事で、自分が罪人である事、そしてその罪を悔い改めてイエス・キリストを救い主として信じる事の誓いを確かなものにしたいと思います。

   きっかけは妻が通っておりました教会(WJC)主催の英語学校でした。クラスの後に行われる牧師の話しが興味深いと言うので、幾度か夫婦の間で話題になっている内に、一度説教を聞いてみようと思いたったのが、最初の教会への出席でした。それまでは、信仰というものは何か漠然と超自然的なものを信じる「およそ現実生活とはかけ離れたもの」という印象を持っていました。しかし、聖書を通して私が問い掛けられた事は、私が現実生活の中で直面している問題そのものである事、それどころか、心の深いところまで関わっているという事実を驚きをもって知る事ができました。

   私が直面している問題を自分に対して問い直す事、これは図らずも自分が罪人であることを証明する事となりました。それは、肉の思いのままに生きること - 様々な誘惑のままに生きる事、楽しい事ですがそれは一時の快楽であり、私にとってしばしば大きな間違い、後悔のもととなりました。周りの人は敵と思う事 - 組織に属し、自由主義経済を生きていく以上、勝者と敗者はいるものです。負けられない競争の中で、成功して傲慢になり、また失敗して屈辱を味わったりと、行ったり来たりしていました。そしてこれが最も大きな問題ですが、人は何を見て生きるのか - 経済的に裕福になる事でしょうか、ステータスを身につける事でしょうか、誰かに認めてもらう事でしょうか。これらの問題に対して、聖書は明確な指針を与えています。即ち、肉の思いを断ち切る事、隣人を愛する事、そして主と共に歩む事であり、信仰に立脚した合理的な教えです。

   しかし、私は今一つその信仰の中に身を委ねる事ができませんでした。イエス・キリストの存在が歴史上の事実であるにも関わらず、それができなかったのは"神"が余りにも大きく、人知の想像しうる範囲を遥かに超えているからでした。"信じる"事に対して悩んでいた時期は続きましたが、ある方のお証しに触れた時にその悩みは解けました。お話の中で牧師は神を真から信じきれないでいるその方に対し「あなたが地球を丸いと知っているのは、それを見た人がその様に言った事を信じているからです。私は神の証人であり、神を知っています。」とおっしゃったそうです。私は自分の五感で感じられるもののみを信じる/認識する対象としてきましたが、それは自分の世界を狭くするだけです。「見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネ20:29)、その言葉を実感しました。

   信仰は無数の点がつながった線の様なもの、次の日も同じ様に強い信仰を持てるかはその日は分からない。しかし、それを毎日行なっている内にいつしかそれが長い線になり信仰生活としての歴史になっている、と教えてくれた方がいらっしゃいました。信仰を持ち続け、肉の世界の支配から脱却する事、競争社会の中でも敵を愛し真摯な態度と誠意を持ち続ける事、様々な価値観が交錯する社会にあって、イエス・キリストの十字架と復活によって私の罪が赦されたと信ずる事で主と共に歩み続け、大波に揺れる木の葉の様な人生ですが、目標を見誤る事無く進んで行きたく思います。

   ニューヨークでの7年半の生活を終え年末に帰国いたしますが、味わった紆余曲折の全てに、授かった3人の子供に、そして信仰を持って帰国出来る事に心から感謝いたします。

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