証し

鈴木 いこ (Linda)
(2009年11月22日NYJCへの転入会式にむけて)

今日は私がイエスキリストを私の人生の目的、中心とすることを受け入れ、その確信に基づいて生きる決意をした時の話をします。

皆様もご存知の通り、私は牧師の家庭に生まれ育ちました。教会でも家庭でも、祈り、聖書を読むことは習慣になっていました。しかし、日本で育ったせいもあり、周りの友人はみな神様とはまったく関係のない生活をしていました。そんななか、自分で神様の存在を信じつつ、また自分をクリスチャンだ、周りの人々にもいいつつも、クリスチャンになる、ということ、クリスチャンとして生きる、ということはどういうことか分かっていませんでした。
周りの勢いに流され、洗礼をうけたのは15さいのときでした。

洗礼式で、イエスキリストを私の神として信じます、と告白しつつも、心ではなんとなく、嘘をついているような、悪い気持ちがしました。

17さいになって、カリフォルニアの高校へ留学することになりました。その学校はとても小さいクリスチャンの学校で聖書のクラスもありました。
そこで学んでいる十代の生徒たちはみんな自分のもつ信仰についてとても誇りをもっているようでした。自発的に友達同士で祈り合い、信仰の成長について励ましあい、私の日本での友達付き合いとは違うものでいた。そこの学びで、明確にクリスチャンになる、ということは、イエスキリストは私たちの命を救うため、神様が与えてくださった、と信じ、その救いを受け入れます、と神様に告白することだ、と教えられました。

そこでの生活が慣れてくるにつれ、私の心ではいつも葛藤がありました。
その学校のクリスチャンの友達の人生と、日本で仲良くしていた、神様とはまったく関係のない生活をしている友達の人生と、何が違うのだろう、自分はどっちなんだろう、と思いつづけ、どちらかを選ばなければ、何かを決心しなければ、という気持ちに迫られていました。

ある夜、私は神様に祈りました。「神様、私はあなたがいる、ということが分かります。知っています。でも、私はそのことについて、自分の心をどう決めてよいかわからない。あなたが私に何か分かってほしいことがあるのなら、分かるようにして下さい。それでなければ、わたしはあなたとまったく関係のない人生を送りたい。ほっといてほしいし、気にしないでほしい。私は私だけで生きる。」と、神様に言いました。

その翌日、学校で、聖歌隊の練習がありました。私はいつもの通り、伴奏の手伝いをしていたので、ピアノのところに座って練習がはじまるのを待っていました。
そのころ仲良くしていた友達の一人が私のところへ来ました。彼女は私にこう言いました。「私はりんだのために祈りたいの。りんだがいつもよくがんばって、英語も勉強してるし、与えられたピアノの才能も神様に祝福されるべきだと思うから、一緒に祈りましょう。」そう言って、その場で私のために祈ってくれました。

その友達が祈ってくれている間、とても短い時間でしたが、二つの聖書の言葉が私の心に与えられ、そしてそれぞれの聖書箇所について私が気づかなければならなかった重要なメッセージを理解するためのイメージが与えられました。

一つ目の聖書の言葉は第1ヨハネの手紙、4章10節です。
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたちたちの罪を償ういけにえとして、御子をおつかわしになりました。ここに愛があります。」

そして、この言葉と同時にイメージが私の心に浮かびました。
私は神様の前に立っていました。神様と手をつなごうか、そのまま無視して立ち去ろうか、まよっていました。ところが、ふと気づくと、実際にはもうすでに神様は私の手を握っていました。そしてそれは私が気づかなかっただけで、ずうっと最初から握られていたのでした。

わたしはこの出来事があったその前の夜、神様に、私はあなたと関係のない人生を送りたい、といいました。しかし、そんな私に神様は友人の祈りを通して、わたしが決断しようとしていたことは私が決めることではなかったのだ、と示されました。もうすでにその手は私を最初からつかまえていて、私がどんなに離そうとしたって離すことはできないのでした。そのことに気づかされたのです。
ヨハネの手紙にあったように、
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを先に愛した」のです。

これに続いて私の心に浮かんだ聖書の言葉は
マタイによる福音書22章37節と38節です。
「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な第一の掟である。」

そしてこの言葉に対し、わたしに与えられたイメージは、上の方からたくさんの光をそそがれている自分でした。金色のような光ですが、とても輝いているので、白くもありました。とてもたくさんの光でした。その光は神様の愛を示していました。そして、その光を受けてつつまれているのに、何もせず、そんなことがまるで起こっていないかのように、他のことを考えようとしたり、無視しようとしている自分がいました。
このとき、自分の罪について理解ができました。聖書で言っている一番の教え、神を愛せよ。神からすでにそそがれている愛に、愛をもって答えよ。
その一番の教えをまず守らず、他のことを考えようとしたり、わざわざ無視したり、それが私のまず第一の罪、なのだ、と分かりました。

この日、私は重要な真理を理解することができました。神様が先に愛されたこと、そして、その方を愛し返さないことが罪であることです。
それはまるで、いままで閉じていた心の目が、自分の力ではなく、神様の力によって開かれた、と確信せざるをえない出来事でした。後に、これは聖霊の働きだったのだ、と分かりました。

その後、同じ日の休み時間に、神様に私は素直に祈ることができました。「あなたが先に愛されたということ、そしてそれの印がイエス様であること、わかりました。わたしの罪も示され、納得できました。あなたを愛すること、それをこれからしていきたい、と思います。それがどんなことであるか、これから教えてください。」
このように神様に話すことができました。

この出来事は今でもよく覚えている出来事ですが、実際には自分の性格や人生ががらりと変わったわけではありませんでした。しかし、生活の中での変化はありました。それは、もっとよく祈るようになったことと、聖書をもっと読むようになった、ということです。困ったことがあれば、「あー、神様、どうすればいいですか?助けてください!」と言ったり、うれしいことがあれば、「神様、ありがとう!」と言ったり、また、神様ってどんな方だろう?聖書にはどんなことが書いてあるだろうか、と思いもっと読むようになりました。

このようなことを通して、少しずつ学び、今にいたっています。あの日の夜、私が神様に言ったのは、ほっといてほしい、自分で生きるから、と言うものでした。私は生きていることを自分を中心とした自分のための命だと思っていました。しかし、こうして学ばされ続けてきた今、この人生は神様が中心なんだ、という土台が私の中にできてきました。神様に生かされ、動かされ、神様の目的の内に生きている。それをいつも心の一番重要な場所に置いて、これからも生きたい、と思います。そして、神様を愛する、というのはどういうことなのか、祈りを通し、御言葉を通し、また教会での交わりを通し、教えていただき、実行し続けたい、それが私の祈りです。

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