「神の導き」
Eriya's Saving Testimony

鈴木英利也
(1998年)

   クリスチャンホームで育っていながら、二十歳を過ぎるまでクリスチャンの本当の意味を知ることはありませんでした。僕の視点から見たクリスチャンのイメージは相当悪くて、ひどく嫌悪感を持っていたのを覚えています。クリスチャンのイメージが相当悪かったことによって、小さいころ親と一緒に行っていた教会も、年が立つに連れて行くこともなくなりました。

   しかし、アメリカに来ることがなかったら、この文を書いている自分もなかっただろうと今になって思います。日本でほとんど自由気ままに生活してきた僕にとって、アメリカンホームライフという団体に属して自分と同じの世代のクリスチャンと接することは、新鮮であったけれども、その新鮮さに増して違和感がありました。

   僕の中には変なプライドみたいなものがあって、それは親を尊敬しているという観念から見て、信用できる自分の親がキリスト教というものを、心のそこから信用しているというのがはっきり分かっていたので、自分自身の心の中ではキリスト教を絶対的に反対することは出来ませんでした。それに小さいころに幼児洗礼を受けているせいもあってか、中途半端な、よく分けのわからないプライドが心の中にあったのは確かです。

   アメリカンホームライフ内で開かれていた聖書勉強でも、ただただ洗礼を受けていたというだけで、クリスチャンと言われ、本当は何も聖書のことや神様のことなど知らないのに、知ったかぶりをしていたのを覚えています。しかし、日本では全くといっていいほど神様の言葉に触れることのなかった僕にとって、一週間に一度の聖書勉強と毎週日曜に教会に行くという行為は、とても大きな前身だったと思います。でも、アメリカの教会に行っていても、心は「我ここにあらず」で全然興味をもてませんでした。なぜなら、それはほとんど強制的に行かされていたからだと思います。

   そんな生活が2年ほど続いて、ニューヨーク州にあるナイヤックミショナリーカレッジに転校することになりました。ミショナリーカレッジは将来、牧師や宣教師になる人たちが多く行く学校です。日本人がたくさんいるところでは英語も上手くならないし、ナイヤックは良い学校だからと親に推され、渋々それを承諾しました。ミショナリーカレッジと言われるだけあって、聖書クラスはとらなけばならなく、なんて無駄な事しているんだろうと思ったときもありました。

   しかし、ピーズ先生の紹介によってウエスチェスター日本語教会の存在を知り、また、そこでデイビットキンダーバーター氏と出会うことが出来て、さらに彼と一緒に半年生活を共にすることも出来ました。彼の生活はまったく僕の生活とは違っていて、クリスチャンらしい生活を送り、日本語教会に奉仕をして、近い将来宣教師となって日本へ渡る勉強もしていました。時には僕がとっていた聖書のクラスの勉強を手伝ってくれたりして、本当に尊敬に値するくらい、僕とはかけ離れた人でした。そんなある日、彼に僕の信仰を聞かれたことがあります。本当にシンプルな質問でした。「あなたは神を信じていますか?」といったような簡単な質問です。でも、この質問は僕にとって、とても重いもので、考えてみると、今までそんな簡単な質問を誰からもされたとこがありません。単刀直入に聞かれて、僕は驚きましたが、即座に答えることは出来なくて、出た答えといえば「信じていると思う」でした。神様の存在を真剣に考えたことがなかった僕にとって、これが精一杯その場で考えて出た答えです。クリスチャンというものは神を心から信じて、その基本に基づいてみんな生きているし、神を信じることはクリスチャンにとって当たり前のこと、と、そこまで言ったかははっきりと覚えていませんが、僕の中の「クリスチャンプライド」は見事にそこで打ち砕かれました。遠まわしながら、「君はクリスチャンではない」といわれたのを実感したのです。

   そのとき付き合っていた彼女と別れたのも重なり、自分自身のことを真剣に考える機会が与えられました。デイビットに言われたことと、教会に行っている影響を受けて、「付き合っていた彼女と僕との間に「神の愛」というものはあったのだろうか」、とか、「神の愛と人が持つ愛というのは違ったものなのかな」などなど。そして一番肝心な「愛って何だ、神って本当にいるのか」、そういったレベルまで真剣に考えるようになりました。

   そんなある日、教会で貸し出していた説教テープを題名が面白そうなやつというだけの理由で借りて聞いてみました。テープの題名はもう覚えていませんが、説教内容はヨハネによる福音書3章でユダヤ人の指導者ニコデモとイエス様の会話です。

   11節「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。」

   12節「あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。」

とあります。ただただクリスチャンなんて胡散臭くて嫌い、と小さいころから思っていただけで、昔から彼らの言葉には耳で聞いていながら、心には一切残していなかったので、今までどうしてしっかり聞いていなかったのだろうと、反省しました。神様は天にいる方ですから、その神を求める前に、地上で話されていることを信じるべきなんだなと感じました。はじめから、そんなことありえないと思って話を聞いて、もしその人が本当のことを話していても、信じることが出来ないというのが人間だと思います。そして僕は徐々に、クリスチャンが言っている言葉に耳を貸すようになったのです。

   しかし、3節から5節にあるように、イエス様は人は水と御霊によって生まれなれば、神の国を見ることが出来ないといっています。次に出てきた疑問は「生まれ変わる」ということです。西郷牧師がテープでいっていたなかに、神の存在を知る、そして生まれ変わるには勇気を出して一歩踏み出して、神様に近づいてみることが大切だといっていたことを記憶しています。

   神の前に心を開き、ありのままの自分をさらけ出して、神様あなたを知りたい、どうか教えてくださいとへりくだって祈ったとき、心の中に何か平安を感じて神様を見つけることが出来ました。そのとき、「ずっと私はここいたのに、お前はなかなか気づいてくれなかった、やっと気づいてくれたな」と言われたような気がしました。どうしてそれがはっきりわかったのかは、とても表現しにくいもので一番適切な表現は8節にあります。

   「風は思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者はみな、そのとおりです。」

   求めなさい、そうすれば与えられる、とあるように、本当に神様に委ね頼るとき、神様はちゃんと答えてくださる方だと信じています。

   アメリカに来ていろいろなことがありましたが、神様の存在を知るためにいろいろなプロセスを経てここまで来ました。一つ一つの小さな出来事をとっても、そこには神様の計画があって次のスッテプへの導きなんだなと信じることが出来ます。それは僕だけではなくて、他の人一人一人にあるものだと思います。


『ウエストチェスター日本語教会の思い出』
by Eriya Suzuki

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