証  し

神保チロル
(1999年12月5日NYJCでの受洗式にて)

   私は長い間、イエス・キリストの存在を疑い続けてきました。 どこにでもあるサラリーマン家庭に育ち、いい成績いい学校いい会社に収まること世間体だけが、生きていく上で何よりも大事な事と教えらました。 その事に異論はあったものの、私自身も、世の中は弱肉強食の世の中なのだから、強くしかも完璧に強くならなくては生きていく資格はないと思って生きてきました。 神も仏もこの世には無いと信じ、自分だけの力でどうにか生きていこうと試み続けてきました。  

   しかし、実際に強くあろうと鍛えれば鍛える程見えてくる事は、自分の強さよりも自分の弱さばかりでした。 いつも最後は成功する期待よりも、失敗するのではないかという不安に負けて身動きがとれなくなり、思いどおりの結果が示せない事が数多くありました。

   特に仕事の中で競争に勝ち残るために、悪を悪と知っていながらもそれにあえて手を染めたり、見て見ぬふりをすることを強いられていた時、私は本当に強い人間のとるべき行動が解らなくなってしまいました。 仕事をする上での必要悪を、できる度胸のある人が強いのか、それとも悪に手を染めない代わりに、他人から脳無しと言われる方を選ぶ度胸を持てる人が強いのか、解りませんでした。また、どっちに転がるとしてもそれを本当に全うできるだけの勇気と行動力が自分にあるのかどうか自信が持てず、毎日悶々と悩んでいました。

   その頃から、最初は歴史の勉強のつもりで読み始めていた聖書の中の言葉が、少しずつ、心に響くようになってきました。

   そもそも人は決して完璧ではないこと、完璧な事は神にしか出来ない事であること、私は本当にそのとおりと思いました。自分の弱さを認めていた私にとって、聖書の言っていることはまんざら嘘ではないなあと共感はしていました。 しかし神様は別に仏教の仏かもしれないし、奇跡を信じてなかった私にとって、目に見えないものを信じることはそう簡単には出来ませんでした。しかも本当にイエスがいるのならば、何でとっとと平和で愛や幸せに満ちた世の中にしてくれないのかと不満に思っていました。信じる者は救われるどころか、信じる者はだまされるに違いないと心の底では思っていました。

   しかし、それでも聖書の中にある、人は完璧ではないそして罪人であるという考えがひっかかり、しかも不思議なことに何故かいつも教会に通うチャンスに恵まれていたため、かれこれ5年以上教会で、一生疑って信者になることはないだろうと確信しつつも、聖書の勉強を続けてきました。

   そんな中、今年の半ばに私は病に倒れました。 その時の私は大事にしてきたハズの仕事や貯金等のほとんどを捨て、もう健康だけが私のとりえと思っていた時でした。 私は原因不明の不治の病と一生付き合っていかなくてはならない言われ、正直、絶望しました。 今まではどんなに辛くても、他人をひがまず見下さず、自分なりに希望だけは見失う事のない様にと思って生きてきたハズでした。 その事だけは自分のプライドにかけてでも絶対に見失わないようにしてきた私の信条でした。

   しかし最後の砦を失ったその時の私は、全ての他人をひがみ、恨み、そしてそんな自分自身に失望し将来に何も希望も見出せず、この先生きていても何の価値も無いと思い、死んでしまった方がマシだと本気で思いました。 しかもそう思いながらも実際には自殺する度胸すらも実は持っていなかった自分を発見し、さらにまたその事にも失望していました。

   私は本当の自分の醜さと無力さを、全てを無くしそこまで追いつめられるまで解っていませんでした。

   そんな孤独と存在価値の無さをかみしめて病床にいた時、枕元に置いておいた聖書が目に留まりました。 愛は寛容であり親切で、また人を妬まず自慢せず高慢にならない上に、愛は決して絶えることがない、という言葉が私の心に刺さりました。 私はこの先、この神の愛無しには生きてはいけないのではないかと思い始めました。

   私は自分自身も愛せず、他人もなかなか愛せない不器用で情けない人間だけど、もしイエスが本当にそんな愚かな私の代わりに十字架にかかって罪の贖いをして愛してくれるのならば、もう一度、全ての事を益としてくれる事を信じて生きてみようかと、そして他人は見放しても、あなただけは私を見放さないで下さいと初めてイエスの名の元に祈りました。

   そしたら、私は翌日の朝、神を見ました。  早朝の夜明け時に、不思議と目が覚めたら、私の左斜め頭上あたりに、温かい気のような空気がありました。 無色透明なのですが、明らかに酸素や二酸化炭素とは違った空気でした。 私はその場でそれが神だと不思議にも解り、「やっぱりあなたは本当にいて、(私を見放さないで)そこにいて見守っていてくれているのね。」と心の中でつぶやいたら、その温かい気はもっと温かくなり私の胸の中をスーっと貫けていきました。 私はこの時生まれて初めて心に平安というものを感じることができました。 そして涙が流れました。

   この体験は今までずっとイエスの存在を疑い続けてきた私へのトドメの出来事でした。一応は後で、あれは夢や病気の熱による幻覚だったのではないかと自分で自分を疑ってみましたが、明らかにこれは夢でも幻想でもなく本当の出来事でした。

   そして、その後他のクリスチャンの方々から電話や手紙をいただき、病気の件で祈っていますと励ましていただき、この事に本当の祈るという意味が見えてきました。

   人の力には必ず限界があり、思いばかりでは他人を救うことは決してできない存在だけれど、その事を知っているからこそ、その思いを神にたくして祈る事がどれだけ大事であり、またその祈りの力がどれだけ私を励まし支えてくれたことか、身に染みて解りました。

   祈りとは言葉を越えて、そしてそれが神を通じることによってものすごい力を持つものだと、やっと解りました。

   これらの神からの恵みに私は今すごく感謝しています。

   神を確信した後の私は今、経済的心配もあるため、少しでも仕事復帰の助けになればと、今更ながらに大学生をもう一度しています。 いろいろな問題を抱え、その事に潰されそうになったり、また他人と比べれば、情けない事が多すぎる自分を知っています。  そして、ただ神にすがっているだけの私が、果たして神が喜ぶことをこの世で具体的にどれだけできるのか、こんな私が本当に出来るのだろうかと心配したりして、時には神を信じつつも、神の計画の思し召しを待てなくてイライラしている弱い自分も知っています。 それでも、そんな私にでも、何かの計画があって私は存在していて、かつ神は永遠に私から離れないという神の教えと愛が、私に希望と平安を与えてくれています。

   神を知った事により、私は心に希望と平安というものを知りました。 これからは、微力な私であっても神の愛からだけは離れないで生きていこうと思います。

   そして本日洗礼式を受けられる時と場所が与えられたことを感謝いたします。


   以上の証をして洗礼を受けてから、数ヶ月が経ちました。洗礼を受けて何が変わったの?とたまに聞かれますが、性格や生活に劇的な自分の変化は無いと思います。むしろ今でも、迷う事、疑う事、恐れる事、くじける事は自分自身の生活の中に数多く存在していると思います。もし、本当に神に自分の全てをゆだねる事が出来ているのならば、シスターの様な心優しい女になって、もっと清く正しい生活が出来るのハズなのになあと思います。 神の愛を確信してクリスチャンになりましたが、今自分自身は一体どれだけ神が喜ぶことをしているのかと考えると、やはり自分の力の無さを痛感せざるを得ません。

   それなのに、常に神の愛と平安だけは実感します。体調が思わしくない私に差し入れや祈りのメッセージを遣わして下さる人々や、礼拝を守り続ける人々の姿や、聖書の言葉が、自分の力だけでは出すことが出来ない元気や平安、他人を思いやる勇気を私に現実に与えてくれています。 一重に神の愛の力がなせる業だと思います。

   "見えないものを信じる者は幸いである"と聖書に書いてありますが、私のような、神が実際に見えるまでは意地でも信じようとしなかった不幸な者にでさえも、神は見捨てることなく目の前に現れて存在を示して下さいました。そして、本来だったらとっくのとうに病気で諦めて日本に帰国すべきところを、ニューヨークで日本よりも腕のいい専門医にかかる機会と学業を続ける環境を、今尚与えて下さっています。これも決して私個人の力だけで出来ることだとは思えません。

   改めて恵み深き主イエスと共に生きられる事に深く感謝いたします。

2000年4月

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